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別天神(ことあまつかみ) 天之御中主神(アメノミナカヌシカミ) 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ) 神産巣日神(カムムスヒノカミ) 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ) 天之常立神(アメノトコタチノカミ) 神世七代(かみよのななよ) 【一代】国之常立神 【二代】豊雲野神 【三代】宇比地邇神(ウヒジニノカミ)/須比智邇神(ウヒチニノカミ) 【四代】角杙神(ツノグイノカ 【六代】 【七代】
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神である。古事記では国之常立神、日本書紀では国常立尊と表記されている。別名 国底立尊。 天地開闢の際に出現した神である。古事記においては神世七代の一番目に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。日本書紀本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。記紀ともに、それ以降の具体的な説話はない。 神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。 日本書紀では最初、古事記でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れをくむ教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教では、根本神である艮の金神は国之常立神と同一神であるとされ、昭和19年6月10日に千葉県成田市台方の麻賀多神社で岡本天明に降ろされた日月神示もこの神によるものとされる。 国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。 日枝神社(東京都千代田区) 山王神社(岩手県胆沢郡金ケ崎町) 大鳥神社(東京都目黒区) 御嶽神社(長野県木曽郡王滝村) 玉置神社(奈良県吉野郡十津川村) 荒沢神社(宮城県本吉郡南三陸町) 戸倉神社(宮城県本吉郡南三陸町) 倉馳神社(岩手県胆沢郡金ケ崎町) 熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の相殿 小村神社(高知県高岡郡日高村)
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天之御中主神 ─ 高御産皇日神 ┬ 神産巣日尊 ─────┬────────────────┐ │ │ │ ├ 思金神 └ 少名毘古那神 │ ├ 布刀玉命 │ ├ 天忍日命 │ └ 萬幡豊秋津師比売命(天之忍穂耳命后) │ │ │ ┌─────────────────────────────────────────────┘ │ └ 宇摩志阿斯訶備比古遅神 ─ 天之常立神 ─ 国之常立神 ───────────┐ │ ┌────────────────────────────────────────┘ │ └ 豊雲野神 ─ 宇比地邇神 ─ 角杙神 ─ 意富斗能地神 ─ 於母陀流神 ───┐ │ │ │ │ │ 須比智邇神 活杙神 大斗乃弁神 阿夜訶志古泥神 │ │ ┌────────────────────────────────────────┘ │ └ 伊邪那岐神 │ 伊邪那美神
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目次 1.六次元の愛(一)― 道元との恋 2.六次元の愛(二)― 日蓮との恋 3.六次元の一日 4.六次元の学習 5.六次元神界の風景 6.六次元から見た神 1.六次元の愛(一)― 道元との恋(1986年7月30日の霊訓) 今日は、いよいよノート・ブックも六冊目に入りましたね。小桜姫の通信も、今回は、この六冊目が完成したら終了です。この一年間の通信をふり返ってみると、感慨深いものがあります。しかし、八割方書き終わって、この自動書記集が出版されることが決まった今となっては、ご無理をお願いしたことや、この通信を送るにあたって、日蓮聖人様や、浅野和三郎さんから、数多くのご指導を受けることができたことなど、ほんとうに小桜は果報者だと、嬉しい気持ちでいっぱいです。 さて、いよいよ、私の物語もクライマックスといわれる場面に差しかかってきたようです。これからは、地上のみなさまがいちばん関心を持っておられる問題、小桜姫のこちらでの現在の生活ということに焦点をあててお話ししてゆきましょう。つまり、六次元神界の実相ということが話の中心となると思います。地上の読者のうち大部分のみなさまは、そう、この小桜の物語をお読みになる大方のみなさまは、他界後、如来界や菩薩界に還られるような高級霊の方々は数少ないことでしょう。 ですから、六次元神界をめざすことが当面の目標となると思うのです。そのためには六次元神界の生活がどのようなものかを知っておいて損はないはずです。あこがれの大学入試の受験勉強中に、その大学のキャンパス・ライフを書いた受験雑誌をひもとく、そんなくつろいだ時間があってもよいと思うのです。 そこで今日は、六次元の生活の第一話として、「六次元の愛」ということでお話ししたいと思います。 地上におられるみなさまは、「愛」といえばすぐ男女の愛を連想され、肉体のない私たち、あの世の人間に愛しあうなんてことがあるのだろうか、と素朴な疑問をお持ちになると思うのです。そこで今日は、小桜の体験発表――体験発表なんていうと、なぜか顔が赤らんできます。小桜も小娘みたいなところがあるときっとお笑いでしょう――をしたいと思います。 地上のみなさまにとっては、衝撃的な発言でしょうが、小桜姫はこの六次元神界に来て、愛する人が二人できました。そのお二人についてお話ししましょう。 最初のお一人は有名な方です。みなさま、はたして信じてくれますかしら。今から七百年ほど前に日本の鎌倉時代にご活躍なさった方です。その人の名は、禅で有名な「道元」という方です。小桜姫は、この方を一目見ただけで、クラクラときてしまったのです。今からそうですね、三百年くらい前のことです。道元様はたいへんりりしい、そうですね、年格好は三十一、二歳の青年僧といった感じで、目もとの涼しげな、たいへん立派な方でした。お背も、スラッと高く、わらじを穿(は)かれたその足のかかとがキリッとしまって、いかにも、厳しい修行に耐え抜いてこられた方という感じでした。 こちらの六次元でも男女の差というものはあって、女は女としての目で男性を見、男性は男性の目で女性を見ているのです。そしてそのなかに、やはり個人的な好みの差は当然あるのですが、小桜などの目から見れば、長年の厳しい修行をされた男性のりりしいお姿は、たまらなく素敵に思われるのです。地上のように、肉体的な、性的な意味合いはありませんが、道元様に一目ぼれしてしまいますと、「お衣(ころも)の裾(すそ)のちりひとつでもお払いして差し上げたい。」という女心が切々とこみ上げてくるのです。これは、やはり、私たちの世界では道というか、法を求めて生きておりますから、一途(いちず)に道を求めている男性のたくましい後姿を見ますと、女というものは、どうしても心魅かれてしまうのです。 小桜が思いますのに、女というものは、やはり一人で道を求めるには弱すぎる存在のようです。女というものは、やはりだれか手本がほしい、できればやはり、男性の手引きがほしいもののようです。道を愛する気持ちがいつかしら、すばらしい男性のあとを追いたいという気持ちに変わってゆくのです。女は愚かな存在ですから、神様はこうした女心をも哀れと思われてか許してくださるようです。 いずれにせよ、私は、道元という方に心ゆさぶられました。六次元神界で、道元様が説法される所にはどこなりとついてまわったときもあります。道元様は、詩人であり、哲学者であり、宗教家である前に、孤高の人でありました。小桜は道元様が二時間にわたる説法のあと、浜辺で、松の木陰に腰かけて、寂しそうに海を眺めておられたお姿が目に焼きついて離れません。そのときに道元様と交わした会話を小桜は今も忘れません。 小桜「お独りでいつもお寂しそうですわね。道を求めるというのは、それほどおつらく、お厳しいことなのですか。」 道元「私はあの海のような存在だ。海は一人にして一人でない。一つにして一つでない。一つの海の中には無数の生命を宿している。」 小桜「しかし、その無数の生命のなかには、小桜姫という名の鯛(たい)は泳いでおりまするのでしょうか。」 道元「泳いではおるかもしれぬ。しかしこの道元には、何が鯛で何が平目かの区別は分り申さぬ。どのような魚であろうとも、魚は魚、一匹はすべてであり、すべてが一匹である。」 小桜「あなた様は、仏に仕える身でありながら、女も仏の生命(いのち)の顕(あらわ)れであるということをご存じないのでしょうか。」 道元「本来、性なし、男女なし。あるのはただ是(これ)、神の子人間。」 小桜「しかし、神仏が、鯛や平目をお創りになったのは、鯛は鯛としての幸せを、平目は平目としての幸せを追求せよということであって、魚として幸せならよいというような、そんな、つき放したお考えではなかった筈(はず)。」 道元「鯛や平目があると思うのは心の迷い。本来無。本来空。真理に形なし。真理に執(とらわ)れなし。」 小桜「女心(おんなごころ)も分らずして何の真理でございますか。」 道元「わが心は木石(ぼくせき)に同じ。われは感ぜず。われは動ぜず。」 小桜「…………。」 これ以上書くのは、小桜にとって不利でございますから、道元禄とのお話はこれまでといたします。 道元様はやはりお心をお開きになることなく、その後、数十年して、菩薩界へと昇ってお行きになり、小桜はその後二百年以上道元様とはお逢いしておりません。今後ともしっかりと修行して、七次元の菩薩界で道元様にお逢いしたいものです。菩薩界は、愛と慈悲の世界ですから、道元様も、小桜姫につれなくされることはきっとないことと思います。 ああ、今日は何とつまらない話をしましたこと。でも明日も、二番目の恋の話をいたしますからお愉(たの)しみに。神界もかた苦しいことばかりではないということをお話ししているだけですから、どうか深読(ふかよ)みなされませんようにお願いいたします。 2.六次元の愛(二)― 日蓮との恋(1986年7月31日の霊訓) さて、今日は、昨日の話の続きで、六次元の愛その(二)をお話しいたします。 私は、道元様のような、知的で、厳しく、男らしい方にもたいそう心を魅かれましたが、反面、たいへんつれないそのお心には少々失望もし、どなたか、この小桜の孤独を慰めてくださる方はいらっしゃらないかと心秘かに思っておりました。こういうと、地上に生活されるみなさまは、私には生前に夫がおりましたから、その夫と愛しあえばよいではないかとおっしゃることと思います。 けれども地上のみなさま、こちらの世界というものは、またさまざまの世界に分かれておりまして、住む人の心のあり様に合わせた段階になっております。そのため、たとえ生前夫婦であったとしても、親子兄弟であったとしても、その一生の間に形づくった心の広さ、大きさによって、往(ゆ)く世界がちがっているのです。 小桜の生前の夫は、今五次元霊界において、やはり武士の意識が抜け切らず、役人のような仕事をしておりますが、たとえかつて夫婦であったとしても、今、心のなかで念うこと、考えることがまったく違ってしまった二人ですから、よほどのことでもないかぎり、会うようなことはありません。ただ風の便りで、夫がどのようなことをしているとか、逆に向こうには、小桜は修行を積んで偉くなったらしいとかいうことが伝わります。かつての夫としても、会っても神仏のことしか話さない小桜と、交わす会話もいまさら何もなく、また、私が神様の仲間入りをしたため煙たがっておるようです。 ということで、六次元で恋をしようと思いましたなら、やはり自分と心をひとつにしているかた、同じ神仏への道を目指している方を選ぶのがいちばんですし、自分の向上にもなります。先方は迷惑かもしれませんが、女性としては、志(こころざし)を一緒にしている男性が近くにいて修行に励めるというのは、たまらない幸せです。地上の夫婦か何かのように、いまさらボーナスをもらえるわけでなし、彼から指輪をプレゼントしてもらえるわけでもありませんが、ただ相手の心のなかに、自分の存在があるということは、何にもかえがたい素敵なことだと思えるのです。 さて、ずいぶんと気をもませて申し訳ございません。二人目に小桜が好きになった方は日蓮聖人様でございます。ああ、やはりとおっしゃる方と、ええ、意外だなとおっしゃる方の二通りの反応があると思います。 もちろん日蓮聖人様はたいへんご霊格の高い方ですので、小桜姫たちの住んでいる六次元神界にはいらっしゃいません。小桜が初めて日蓮聖人様にお逢いいたしましたのは、およそ五十年ほど前のことでございましたでしょうか。そのころちょうど、前回の「小桜姫物語」をご編集くださった、浅野和三郎さんが、小桜たちのいる六次元神界に帰天してこられたのです。六次元神界でも、浅野氏にご縁のある方々がお集まりになり、総勢四、五十名で「浅野和三郎氏、帰天祝賀パーティー」が催されたのです。その際、浅野さんは、帰天第一回目の報告演説ということで、「地上界における心霊思想の普及とその進展」という演題で約一時間のスピーチをなされました。 このとき来賓(らいひん)として招かれたのが、くだんの日蓮聖人様だったのでございます。ご高名はかねてより伺っておりましたが、そのお姿に接したのはまったく初めてでありました。ほんとうの光の天使というのはこういうものなのだなと小桜が心底思ったほど、日蓮聖人様は光り輝いておられました。そのとき集まった方々のうわさ話として小桜姫が伺った話では、日蓮聖人様は、本来八次元如来界の大指導霊なのですが、日本における仏教思想の普及のために、あえて光の量を落とされて、七次元の菩薩界の方を装って、鎌倉時代に、法華経の行者日蓮という名でご活躍されたのだそうです。 小桜にほんとうにこの方が偉いと思われるのは、その謙虚さです。現在でも人びとのうわさ話として六次元神界に伝わっている話では、日蓮聖人様は、八次元如来界の上段階ぐらいのご霊格をお持ちなのにもかかわらず、「自分は菩薩として、光の大指導霊の縁の下の力持ちとして働きたい。」とおっしゃっているのだそうです。 日蓮聖人様は、今から七百年前に帰天されてから、生前、念仏宗や禅宗、天台宗を批判しすぎて、同時代の仲間であった光の天使たちを傷つけたのを悔やまれ、かなり反省行に打ち込まれたそうです。今、こちらの世界では、生前の日蓮様の真意はみなの者に理解され、日蓮様が、「念仏では教われない、禅では悟れない、天台宗の学問教義を知で学んだだけでは教われない、釈迦の本心を最も伝える法華経の教えをよく理解して、心と行ないを正していくことこそが、ほんとうの仏教のあり方である。」と教えられた内容は、やはり鎌倉時代の仏教では最高峰であったという評価が定着しています。 しかし日蓮様は今でも、お仲間たちを批判された罪を深く心に感じておられ、七次元と八次元の中間の梵天界にあって、如来と菩薩との間の法の中継役を買って出ておられます。また、〇〇さんらが地上で活動され始めるにあたっても、ご自分が、最も激務である直接の指導役、調整役を買って出られたのです。この方は本来は如来の法を説ける方なのです。その方があえて身をやつして、菩薩に徹(てっ)して、あなた方の個人的な悩みや相談ごとを受けておられるのです。つまらない日常の悩みごとにもお答えしておられるのです。小桜は、時折、この方の菩薩行を見ていて涙がとめどもなく流れてゆくのを禁じえません。地上のみなさまは、『日蓮聖人の霊言』というご本をお読みになっておられるはずです。あのなかで、日蓮様がどれほど根気強く、どれほど配慮深く、どれほど優しく諭(さと)しておられるかを読むと、涙が流れないわけはありません。 ああ、この方は、ほんとうは法然様や、親鸞様や、道元様や、空海様にお比べ申し上げても、はるかに偉い方なのですよ。そうした偉い方が、菩薩のごとく、懇々(こんこん)と諭しておられるその慈愛に満ちたお姿を拝んでおりますと、小桜の両眼は涙であふれてきます。ああ、この方は小桜姫以上に謙虚にお仕事をしておられるのだ。大会社の社長さんが、みずから平気で新人社員のごとくコピーをとっていらっしゃる、そんなお姿にはただただ頭が下がります。 こういうわけで、小桜が六次元神界で、二人目に好きになりました男性は日蓮聖人様です。日蓮様は、たいへん精力的にご活躍しておられ、六次元神界には、週に二度ほど必ずお見えになり、諸天善神たちに法をお説きになります。会場の隅のほうで、小桜が小さくなってご法話を聞いておりますと、お帰りになる際に必ず小桜のところにお立ち寄りになり、肩にそっと手をおかけになって「頑張りなさい。」とお声をかけてくださいます。この優しさはたまりません。 日蓮聖人様は、限りなく知性的で、限りなくエネルギッシュで、悪や不正に対しては、男らしく敢然と立ち向かわれ、その実、女性や子供にはとてもお優しいのです。小桜がこの霊界通信を送っていて、内容に行きづまると、いつもヒントを与えてくださるのも日蓮聖人様です。 日蓮様はお年格好は、三十七、八歳、やはりお坊様らしく、金色の袈裟を着ておられますが、眉は太く、長く、目は精悍(せいかん)で、耳は大きな福耳をしておられ、唇は薄く、キリッとしまり、ご意志の強さを表わしておられます。肩幅は広く、骨太で、ガッチリした感じ。手も大きくてらっしゃるのですが、その指先は繊細で、女性的な優しさも感じさせます。お背はそう、169センチメートルぐらいでしょうか。小桜が157センチメートルぐらいですから、並ぶとまずまずぐらいのカップルになってしまいます。ああ、小桜の顔は赤らんでしまいます。 しかし、日蓮様への愛は、もちろん男女の愛ではありません。どちらかというと、師弟愛に近い愛でしょう。でも、お逢いするたび、何か小桜をよい方向へ感化されるこのお方は、やはり何度も何度も逢いたいという気持ちを小桜におこさせます。これが恋でなくて何でしょうか。小桜には残念ながら日蓮様に差し上げるものは何もありません。ささやかながらお慕い申し上げ、ご尊敬申し上げるだけです。 どうやら小桜の六次元の恋は、いつも片想いばっかりのようです。 3.六次元の一日(1986年8月1日の霊訓) さて前回は、わたくし事も公開させていただき六次元でも「愛」はあるのだということをみなさんにお伝えいたしました。地上におられるみなさまがやがて還ってこられる世界に、恋も愛もあることをお知りになったら、きっと夢と希望をお持ちになることができると思ったのです。私たちの住んでいる世界は、百鬼夜行(ひゃっきやこう)のうす気味悪い世界ではありません。それはそれは明るい世界です。しかも、ひじょうに公平な世の中になっています。自分の心が進歩すれば進歩するほど、だんだんに偉い人に会えるのですから、こんなすばらしい世界はありません。また人に危害を加えるような人は、そういう人ばかりでまた集まっていますから、私たちは毎日安心です。 インドの時代、お釈迦様は、生老病死の四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)の四つを加えて八苦といわれました。これがいわゆる四苦八苦です。 生老病死は地上のみなさまもご存じなので、残りの四苦について簡単に説明させていただきますと、愛別離苦とは、愛する人と生き別れる苦しみ、怨憎会苦とは、うらみ、にくんでいる人と会う苦しみ、求不得苦とは、欲しいものが手に入らない苦しみ、五陰盛苦は、五陰が盛んな苦しみ、つまり、肉体的に欲望が次から次から出てくる苦しみです。こういうと、ハタと膝頭(ひざがしら)を打つ方もいらっしゃるでしょう。お釈迦様はほんとうに人間の苦しみをよく知っておられるものです。 でもほんとうにお釈迦様の悟りの偉いと思われるところは、十分あの世、つまり、私たちの世界を知った上で、地上の苦しみをお説きになっているからです。私たち、六次元神界では、愛する人と生き別かれるということはありません。愛する人とは思えば即座に会えます。もちろん、あまり偉すぎる人に簡単に会うことはできませんが、祈りをしておればいつかはお会いできる機会があります。こちらの世界では「祈り」とは、手紙を出すことと同じであり、電話をかけることと同じ行為だからです。 また、私たちの世界では、いやな人と会うことはありません。たいていそういう人は、意識の段階が低いので、下の世界にいるため会うことはないのです。また、欲しいものが手に入らない苦しみもありません。欲しいものは何だって手に入ります。心に思ったことがすぐ現われてくる世界だからです。その上、肉体煩悩に苦しめられることもないので、毎日がすがすがしい気持ちで生きてゆけます。 こういう、いい話ばかり聞かされると、地上はほんとうに不浄な場所のような気になられると思いますが、そこから脱出することばかりを考えてはいけません。泥の中でも光っている真珠のようでなければ、宝石ばかりの世界に入っていけないのですから。 さて、今日も、六次元神界の説明を続けることにしましょう。地上のみなさまは、私たちが毎日いったい何をやっているのか。また、そもそも一日というものがあるのかどうか、疑問でいっぱいだろうと思います。そこで今日は、「六次元の一日」という題でお話いたします。 六次元の一日といっても、もちろん人それぞれなので、小桜姫にとっての一日というものを語りましょう。 小桜のいる世界では、昼と夜がありません。考えてみればいつも昼です。そしてみなさんご想像のとおり、時計というものがありません。時計がなければ、人と会う時約束に困るじゃないか、とおっしゃる方もいるでしょうが、地上と違って、私たちの世界は意識の世界ですから、会おうとすれば即座に会えるのです。約束というものがあるとすれば、今、何かに心が集中しているので、もうちょっとしたら会いましょう、と小桜がある人に思念を送ったら、その「もうちょっと」というのが以心伝心で相手にも的確にわかるのです。 そういうわけで、いつも昼間で時計もないのですが、なぜか一日の感覚というものはあるのです。やはり昼間は昼間なのですが、朝方のような感じ、真昼のような感じ、夕方の感じはあります。ではどうして、一日を計るのかと質問されそうですが、一日の計り方はその人次第なのです。少々難しくなりますが、地上の人にとっては、一日が二十四時間と、だれにとっても決まっていますが、こういう時間のことを「相対時間」といいます。 ところが、私たちの世界では、時間はその人自身の感覚が決めるのです。これを「絶対時間」といいます。六次元に限ることだけではないので、四次元以降の世界の時間ということで広くお話ししますと、たとえば地獄界に堕ちた人で、肉体が事故死したり、病死したり、戦場で倒れたりした人は、自分が死んだことに気づくまで、まったく同じ状態が続きます。つまり死の苦しみが、五十年も百年も続くこともあるのです。しかし彼にとっては百年も一日のようなものです。ですからこういう人はまるで浦島太郎みたいですね。「自分は殺されて痛いんだと思っていたが、アレ、気がついてみると少しも痛くないや。」と思ったときには、百年も経(た)っていたなんてことがあるのです。 私にしてもそうで、昔洞穴のなかで、ただ祈ってばかりいたときには、何だかわからないままに、地上時間の五十年、百年はアッという間に過ぎ去りました。 ところが今、お手伝いということで、毎日霊界通信を送っていますと、どうやら私の生活時間も一日二十四時間になってきたようです。その日の霊界通信を一時間ぐらい送ってこちらに還ってきて、内容について反省したり、いろんな方に相談したりして、また、翌日の通信の内容のことをいろいろ考えたり、また、地上の翌日になって、呼ばれて自動書記で書いたりしているのです。ですから今、私の時間はあなた方の時間ととてもよく似てきています。ただ便利なのか、不便なのか知りませんが、私たちは睡眠をとる必要がまったくないので眠ったりはしません。ですから、私を昼間呼ぼうが、真夜中に呼ぼうが、私が寝ぼけまなこで出てきて、今眠いので、またこの次にしてください、なんていうことは決してありません。 ただ私たちの世界でも、何か事件があって、そのショックで寝込む――まあ、人と会わないぐらいの意味ですが――ことはたまにあります。たとえば、この小桜姫の霊界通信が出版されても、まったく売れゆきが悪くて、返本の山となり、出版社の社長さんが、薄くなった頭をかかえ込んだりすると、小桜姫もこちらで精神的ショックのために、冬ぶとんを頭からかぶって寝込んでしまうことはあります。そのときには面会謝絶という貼紙を家の玄関に出して、だれとも会いません。 出版の話になりましたので、脱線ついでにお話いたしますと、今、地上で、「日蓮聖人の霊言」とか「天照大神の霊言」、「坂本龍馬の霊言」などが続々出版されておりますが、面白いことに、こういった本が地上で出版されると、天上界の私たちの世界へも届くのです。書物というのは、一つの念の集合体ですので、書物が完成した時点で、天上界でも同じものが現われます。ですから、この小桜姫の霊界通信が地上で発表されると、まったく同じものが六次元神界でも出廻り、多くの関心を持っている人――地上での神理の流布に関心を持っている霊人――に読まれます。ただし、こちらでは無料で手に入りますが。 地上のみなさまがご想像されるとおり、出版後は、六次元での読者からも、さまざまな質問が寄せられ、「小桜姫の講演会」などもやらなければいけないと思います。 もう一つだけエピソードをご披露しておきますと、「坂本龍馬の霊言」の本で、龍馬さんが、自分の本は一千万部売れて当然だと宣言されたので、その売れ行きを天上界の霊人は注目しています。龍馬さんは自信満々なのですが、その内容にかなり過激なことが書いてあるので、菩薩界の宗教家からかなり非難が出ており、龍馬さんは龍馬さんで、「俺の意見が正論であることは、読者が証明するだろう。」と息巻いているそうです。 まあ、小桜も、今後いろいろな方から「お前の考え方では地上人を混乱させる。」などとご意見を頂戴するのでしょうが、こちらの世界では、怨憎会苦はありませんから、そういった方とは今後、交際しないまでのことです。では今日はこのへんで。 4.六次元の学習(1986年8月2日の霊訓) 今日は、さっそく本題に入ります。題して「六次元の学習」です。 こういうと、地上で勉強が嫌いで嫌いで困っている方は、六次元でも勉強があるのかと顔をしかめられることと思います。そのとおり勉強があるのです。地上では受験勉強があっていやいや家庭教師についたり、塾に通ったりしている子供が多いようですが、こちらには今のところ塾や予備校のようなものはありません。 しかし、学校のようなものは六次元神界にはちゃんとあります。六次元神界というところは勉強家の集まりなのです。いちばん多いのが学者で、次に芸術家、医者、技術者がたくさんいます。地上生活時代に、何かの専門家、大家であって、心が唯物思想に染まってない、精神的なものを求める清らかな人はたいていこの六次元神界にいて、それぞれの専門家集団で研究していることが多いのです。 私がこちらで会った有名人を挙げてみますと、医師パスツール、音楽家―滝廉太郎、文豪―森鴎外、詩人―堀口大学、歌人―与謝野晶子、斎藤茂吉、画家―緒形光琳(こうりん)、政治家―尾崎行雄、小説家―紫式部、泉鏡花、志賀直哉、評論家―小林秀雄、俳人―蕪村(ぶそん)、一茶、などがいます。こういう人びとをみていると、六次元神界にくる人びとは、たいへん勉強家が多いことに気づかれると思います。現在では、小桜の知らない大学教授とか、研究者、高級官僚もおります。こういう勉強家の群れをみると、地上で多少学校の成績が良いぐらいでは六次元には来られないのがよくわかります。 宗教家では、教祖になっている人は、たいてい菩薩以上の人が多く、神界にいる人は、学問的に仏教やキリスト教を勉強した宗教家、あるいは、こちらの世界に来て、神仏の道を求めて修行中である、小桜のような人間が大部分です。 神様が創られた九次元から三次元までの世界のなかでは、この六次元が、いちばん学習ということに重点をおいており、ここで十分に学び終えた人が、七次元の菩薩界で人扶(たす)けに励んでいるのです。神様は、みずからが学んでいないのに、他人を導くことはできない、ということをひじょうに厳しいルールとしておられ、六次元の人は、一般的に人びとを導くことは許されておらず、自分の専門の領域で、地上の人びとや、あの世の下の世界の人びとを指導することになっています。ですから、地上で研究者や小説家、画家、詩人などにインスピレーションを送っているのは、たいていこの六次元神界の人びとです。 しかし、この六次元神界にも裏側の部分はあって、そこでは仙人や天狗が修行に励んでいます。こういった人びとは、超能力信仰に入って、慈悲や愛を知らず、思想的に危険なので、一般の神界人とは会えないように隔離されています。今日地上で、スプーン曲げや、催眠術、奇術、念写、占星術、姓名判断、滝行などの荒行、ヨガの行者、漢方薬、鍼灸師、空中浮揚、拳法、心霊治療、等々には、たいていこの六次元神界の裏側、仙人界、天狗界の人びとが指導にあたっているか、本人が直接地上に生まれてやっています。 心霊治療は、人びとの病気を治すのだから、慈悲や愛はあるのではないかという方もいらっしゃるでしょうが、仙人界の人びとが地上に降りて「教祖」と呼ばれたいがために、やっている場合も多いのです。もちろん、釈迦やキリストをはじめとする上級天使たちも、病人の治療はやっておりますが、それは神理の実証のためにやっただけで、やはり、法、教えがあります。ですから、教えのない現在はやっている心霊治療は、ほぼ仙人界の人の活動とみて間違いありません。 こういう人は、自分を釈迦、キリストの生まれ変わりのように錯覚して地上時代を生き、還ってくると、あにはからんや、天狗界や仙人界で、流行や崖(がけ)登り、木登りの修行をさせられて、こんなはずはないと怒ったりすることがままあります。天狗界や仙人界から菩薩や如来が出ることはありません。ただし、大天狗の仲間には、かつて菩薩であったものが、地上に降りて自分の超能力を過信して、超能力信仰におちいって、本来の世界に還ってこれなくなったものもおります。 この天狗界・仙人界と、私たちの今いる表側の神界との間に、竜宮界というのがあり、このなかでの指導役が竜神と呼ばれています。竜神は、天狗、仙人でもなくて、人間でもなく、天地自然の霊力をコントロールするために創られた特殊な役柄です。一代の風雲児のような英雄は、たまたま地上に旋風をもたらすために生まれた竜神であることがよくあります。 かつて光の大指導霊であったスサノオの命(みこと)も、高天原、高級神霊界より天照大神に追放され、現在は竜宮界で、竜神の大親分的存在となっています。竜神は霊力が強いことが特徴で、ときには菩薩、如来以上の奇蹟を起こすこともあります。小桜もかつてこの竜宮界で一時期修行をしたこともありますが、やはり、本物の仏教者や、神道家に魅かれることが多く、今は遠ざかっております。 六次元神界の人口構成比は、小桜がいる、光の天使系列の表側神界入口が約七割、竜宮界二割、天狗・仙人界一割となっているそうです。 ですからこれから書くのは、主として表側神界の学習です。 表側神界の指導役は、諸天善神といわれる光の天使たちです。日本神道では、国津神(くにつかみ)といわれる系統がこれに近いです。 諸天善神もいくつかに担当が分かれておりまして、①法の補助者、②法の護衛者、③法の支援者、④法の専門者の四つに大別されます。 ①の法の補助者というのは、如来や菩薩が地上で法を説くときに、その内容について助けたり、あるいはこちらで、幽界人、霊界人などを教えたりします。②の法の護衛者は、地上に出た光の天使たちを悪魔の勢力から守る役割、つまり不動明王たちがそうです。あるいは、如来や菩薩が、ときたま地獄浄化のために説法に降りていくときに、彼らを地獄霊から守る役目をします。③の法の支援者は、地上に降りた光の天使たちを物質的・経済的に支援するため、大黒天的役割です。④の法の専門者は、科学や芸術や、哲学など専門分化してしまった神理をその枠のなかで指導する役割です。 小桜姫が今属しているのは①の法の補助者グループで、まあ、いわば、六次元神界ではエリート・コース、菩薩界に上るために修行している仏教家、神道家、クリスチャンなどが勉強している所です。 もちろん、学校というほどではありませんが、約百名ぐらいが定員の集会所がいくつかあり、それぞれの集会所で、校長さん、教頭さん、講師にあたる光の天使がいます。小桜たちはその心性に合わせて、仏数的な集会所とか、神道的な集会所とか、クリスチャン的集会所に行きます。小桜が今こちらでとっているコースは、仏教―七割、キリスト教―二割、神道―一割になっています。 ここでは、たとえば仏教の学校では、教科としては、①地獄論、②布教論、③神理伝道の歴史、④誓願論、⑤自力論、⑥運命論、⑦神国構造論、⑧説法技術論、⑨対機説法論、⑩地上学習論、などのコースがあります。 キリスト教の学校では、祈りのコースや、キリスト教の歴史があるのは当然です。以上のような教科でも、必修科目と選択科目があるのは地上と同じですが、こういった学科学習と併行して、演習の授業があり、各人、五次元霊界や四次元幽界へ行って、説法の実地訓練をやらなければなりません。それ以外に、必ず、地上界の人間を守護・指導する役割を負わされることになります。 ですから小桜姫の立場でいえば、各教科を優秀な成績でマスターして、説法の実地訓練にパスし、地上界の守護・指導にも合格して、地獄霊の導き方などもマスターしたら、菩薩界に昇っていけることになっています。 実際には私も、六次元では、先生役のほうで回ることが多く、この小桜姫物語が地上の人びとを救うための大きな力となり、そして日蓮さんのような主任教授の推せんがあれば、あるいは、新天地の七次元菩薩界に行けるかもしれません。菩薩界に上がって、多くのすばらしい人びとに会い、地上や地獄の数多くの迷える人びとを教うのが小桜姫の現在の夢です。 これは、あなた方が、地上でしっかり頑張って大学者になったり、大経営者になったりして、多くの人びとを指導したいという気持ちに似ているかもしれません。 人間が人間を指導するという相互の切磋琢磨(せっさたくま)は永遠に終わることがなく、なるほど神様というのはすばらしい世界を創ったものだなと感心している今日このごろです。
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あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ - 【あ】の神様 天之御中主神(あめのみなかのぬし) 別 名: ・ 登場話ふることふみ:第 話 天之常立神(あめのとこたち) 別 名: ・ 登場話ふることふみ:第 話 名前 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 別 名: ・ 登場話ふることふみ:第 話 名前 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 別 名: ・ 登場話ふることふみ:第 話 名前 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 別 名: ・ 登場話ふることふみ:第 話
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記紀 + ... 古事記【原文】 古事記【現代語】 日本書紀【現代語】 日本書紀【原文】 備考 昔、まだ天と地が混じり、陰陽の区別もなく、鶏卵の中身のように固まらなかった中、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えていた。 古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。 やがて、澄んで明るいものは、上昇して天となり、重く濁ったものは、下に溜まって地面となった。 及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、 澄んで明るいものはまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間を要した。 精妙之合搏易、重濁之凝竭難。 それゆえ、先に天が出来上がり、地面はその後に出来た。それから、神が生まれた。 故、天先成而地後定。然後、神聖、生其中焉。 それ故、天地開闢の初め、国土が固まらない様子は、魚が水面に浮いている状態に例えられる。 故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。 そんな時、天地に葦が生えるように、ある物が生じた。間もなくそれが神となり、国常立尊と名乗られた。 于時、天地之中生一物、狀如葦牙。便化爲神、號國常立尊。至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。 次に国狭槌尊、次に豊斟渟尊と、全部で三人の男性神が生まれた。 次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以、成此純男。 別伝1では、天地が初めて分かれたとき中に浮くものから国常立尊(国底立尊)が生まれた。続いて国狭槌尊(国狭立尊)、次に豊国主尊(豊組野尊・豊香節野尊・浮経野豊買尊・豊国野尊・豊齧野尊・葉木国野尊・見野尊)が生まれた。 一書曰、天地初判、一物在於虛中、狀貌難言。其中自有化生之神、號國常立尊、亦曰國底立尊。次國狹槌尊、亦曰國狹立尊。次豐國主尊、亦曰豐組野尊、亦曰豐香節野尊、亦曰浮經野豐買尊、亦曰豐國野尊、亦曰豐囓野尊、亦曰葉木國野尊、亦曰見野尊。 別伝2では、昔、大地が出来上がる前は、水に浮かんだ油のように漂っていた。そんな中、国の中に葦が生えるように生まれた神があった。可美葦牙彦舅尊という。次に国常立尊。次に国狭槌尊が生まれた。なお、葉木国はハコクニと、可美はウマシと読む。 一書曰、古、國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、國中生物、狀如葦牙之抽出也。因此有化生之神、號可美葦牙彥舅尊。次國常立尊。次國狹槌尊。葉木國、此云播舉矩爾。可美、此云于麻時。 別伝3では、天地がまじりあった状態の頃に、初めて可美葦牙彦舅尊という神人があった。次に国底立尊があった。なお、彦舅はヒコジと読む。 一書曰、天地混成之時、始有神人焉、號可美葦牙彥舅尊。次國底立尊。彥舅、此云比古尼。 別伝4では、天と地が初めて分かれると同時に現れた神がいた。名を国常立尊という。次に現れた神は国狭槌尊という。 一書曰、天地初判、始有倶生之神、號國常立尊、次國狹槌尊。 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、 天地が初めて現れた時に、高天原に出現された神様は、天之御中主神と申します。 また、高天原に現れた神の名は、天御中主尊という。 又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊、 高天原├茨城県:多賀郡├群馬県:生犬穴├富山県:高天原湿原├山梨県:身曾岐神社├長野県:高天原山├静岡県:山田屋旅館(廃業)├三重県:神路山├奈良県:御所市高天├和歌山:丹生都比売神社├鳥取県:八頭町├鳥取県:若桜町舂米├岡山県:蒜山高原├広島県:広島市├長崎県:壱岐市├熊本県:幣立神宮├宮崎県:高千穂町└宮崎県:高原町 次高御產巢日神、 次に高御産巣日神、 次に高皇産霊尊、 次高皇産靈尊、 次神產巢日神。 続いて神産巣日神、 続いて神皇産霊尊が現れた。 次神皇産靈尊。 此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。 この御三方は皆お一人で出現され、やがてお隠れになりました。 皇産霊は「みむすひ」と読む。 皇産靈、此云美武須毗。 別伝1では、天地がまだ固まらず、海上の浮雲に根がないようにふわふわしていた中に、泥から葦が生えるようにして、ひとつの物が生まれ、それが人に変化した。名を国常立尊という。 一書曰、天地未生之時、譬猶海上浮雲無所根係。其中生一物、如葦牙之初生埿中也、便化爲人、號國常立尊。 次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、 次に国土が出来立てで、水面の脂のように、クラゲのようにふわふわ漂っている時に、葦が芽を出す勢いで御出現された神様は、 別伝2では、天地が初めて分かれたときに、ある物が葦の芽が生えるように空中に生まれた。このようにして現れた神を天常立尊という。 一書曰、天地初判、有物、若葦牙、生於空中。因此化神、號天常立尊、 宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、獨神成坐而、隱身也。 宇摩志阿斯訶備比古遲神といい、 次に可美葦牙彦舅尊が現れた 。 次可美葦牙彥舅尊。 次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。 次に天之常立神といいました。この方々も皆おひとりで出現された後、お隠れになりました。 上件五柱神者、別天神。 以上の五神は、特別な天の神様です。 次成神名、國之常立神訓常立亦如上、次豐雲上野神。此二柱神亦、 それから次々に現われ出た神樣は、国之常立神、豊雲野神、御二方はお一人で出現されました。 またある物は浮かんだ油のように空中に生まれた。このようにして現れた神を国常立尊という。 又有物、若浮膏、生於空中。因此化神、號國常立尊。 次成神名、宇比地邇上神、次妹須比智邇去神此二神名以音、 続いて宇比地邇神、須比智邇神、 次に現れた神は、埿土煑尊(泥土根尊)と沙土煑尊(沙土根尊)という。 次有神、埿土煑尊埿土、此云于毗尼・沙土煑尊。沙土、此云須毗尼。亦曰埿土根尊・沙土根尊。 次角杙神、次妹活杙神二柱、 次に角杙神、活杙神、 次意富斗能地神、次妹大斗乃辨神此二神名亦以音、 次に意富斗能地神、大斗乃辨神、 次に現れた神は、大戸之道尊(大戸之邊尊・大戸摩彥尊・大富道尊)と大苫邊尊(大戸摩姫尊・大富邊尊)という。 次有神、大戸之道尊一云、大戸之邊・大苫邊尊。亦曰大戸摩彥尊・大戸摩姬尊。亦曰大富道尊・大富邊尊。 次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音、 次に於母陀流神、阿夜訶志古泥神、 次に現れた神は、面足尊と惶根尊(吾屋惶根尊・忌橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊)という。 次有神、面足尊・惶根尊。亦曰吾屋惶根尊、亦曰忌橿城尊、亦曰靑橿城根尊、亦曰吾屋橿城尊。 次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。 続いて伊邪那岐神と伊邪那美神が出現されました。 次に現れた神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊である。 次有神、伊弉諾尊・伊弉冉尊。 別伝1では、この二柱の神は青橿城根尊の子である。 一書曰、此二神、靑橿城根尊之子也。 別伝2では、国常立尊が天鏡尊を生み、天鏡尊が天万尊を生み、天万尊が沫蕩尊を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ。沫蕩は、アワナギと読む。 一書曰、國常立尊生天鏡尊、天鏡尊生天萬尊、天萬尊生沫蕩尊、沫蕩尊生伊弉諾尊。沫蕩、此云阿和那伎。 あわせて八人の神が現れた。これらの八神は、陰陽が混じり合って成り現れたので、男女の性がある神である。 凡八神矣、乾坤之道相參而化、所以、成此男女。 上件、自國之常立神以下伊邪那美神以前、幷稱神世七代。上二柱獨神、各云一代。次雙十神、各合二神云一代也。 国之常立神から伊邪那美神までを神代七代と申します。宇比地邇神から以下は御二方で一代でありました。 国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までを、神世七代という。 自國常立尊迄伊弉諾尊・伊弉冉尊、是謂神世七代者矣。 ゆかりの寺社(御朱印視点) 引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。 【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 山梨県 身曾岐神社 北杜市小淵沢町上笹尾3401 【由】所在地「小渕沢町高天原」は、行政地名ではない。(ビル名のような扱いで、郵便物が届くものと考えられる。)なお、身曾岐神社は宗教法人かむながらのみちが所有する神社である。 奈良県 高天寺橋本院 御所市高天350 【由】天津神たちが住まう場所と伝わる。高天寺橋本院の駐車場に石碑が建つ。 和歌山県 丹生都比売神社 伊都郡かつらぎ町上天野230 【由】「当社が鎮座する天野の地は古来、神のみが鎮まる場所とされていました。天野と高野を合わせて神々の住む天上の「高天原」を意味する地であったのです。」丹生都比売神社の「世界文化遺産」解説文より抜粋 熊本県 幣立神社 上益城郡山都町大野712 【伝】大日本史に見える知保の高千穂嶺が幣立神社の所在地である。なお、幣立神社について、『全国神社名鑑<下巻>』(全国神社名鑑刊行会/1977年)の「事業」欄に「天下一家の会」とある。 【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 岡山県 茅部神社 真庭市蒜山西茅部1501 【噂】高天原比定地である蒜山高原に鎮座する。 【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。 都道府県 施設名等 所在地 備考 茨城県 多賀郡 多賀郡 【噂】新井白石は『古史通』において高天原をひらがなでの読みで言語解釈し、常陸国多賀郡と比定した。 群馬県 生犬穴 多野郡上野村 【除】鍾乳洞内の一部エリアの名称としてつけられたものであり、記紀を由縁とするものではない。 富山県 高天原湿原 富山市有峰 【噂】高天原湿原や高天原温泉がある。日帰りは困難。 長野県 高天原山 南佐久郡川上村梓山 【噂】群馬県側の尾根は、1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故の墜落現場があり、「御巣鷹の尾根」と命名されている。 静岡県 山田屋旅館(廃業) 伊豆の国市長岡1076-1 【除】平成26年9月廃業。キャッチコピーは「神々の湯 山田屋」。 三重県 神路山 伊勢市宇治今在家町 【噂】三重県伊勢市伊勢神宮内宮の神苑の山。 鳥取県 八頭町 八頭郡八頭町 【噂】「天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。」Wikipedia 鳥取県 若桜町舂米 八頭郡若桜町舂米 【噂】「鳥取県若桜町舂米のわかさ氷ノ山スキー場には「高天原」の地名・伝承が残っている。」Wikipedia 岡山県 蒜山高原 真庭市 【噂】周辺に「天の岩戸」や「天磐座」と呼ばれていた茅部神社がある。 広島県 広島市 広島市 【除】「広島市営 高天原墓苑」。 福岡県 甘木朝倉地方 朝倉市甘木 【噂】「産能大教授安本美典先生他多くの学者は、高天原は邪馬台国で、それは甘木朝倉地方であり、邪馬台国の女王卑弥呼は天照大神であるとしている。」『日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ』の碑 解説文より抜粋 長崎県 壱岐市 壱岐市 【噂】「天ヶ原、高野原等の地名が残り、九州王朝説では天国領域とされている。」Wikipedia 宮崎県 高千穂町 西臼杵郡高千穂町 【噂】同町には「天安河原」や「天岩戸」が存在する。 宮崎県 高原町 西諸県郡高原町 【噂】『三国名勝図會』に「土俗傳へ云、當邑を高原と號するは高天原の略称なり」とあるという。 身曾岐神社 天地と共に生き合い、自然を教典とする“いのちの信仰”古神道、千載にわたり白川神祇伯王家に伝えられてきた“神ながらの道”――神道中興の祖・井上正鐵への神伝を経て、その真髄をことごとく相承する身曾岐神社。東に世界遺産にも登録された霊峰富士、南に甲斐駒ケ岳を眺望し、日本列島の中立に屹立する八ヶ岳の南麗、約12万平方米におよぶ自然豊かな青緑の地に定めた万象調和のまほろば「高天原」。そこに古神道本宮・身曾岐神社は鎮座します。匠たちの伝統の技が惜しみなく注がれた神明造りの本殿。古神道の神学、「神は火水なり」を具現した火祥・水祥の両殿。東域には日本伝統文化の象徴として、神池に浮かぶ能楽殿。さらに、門外不出とされた古神道の行法を伝授する修行の社としての瑞松宮。わが国で唯一、「古神道本宮」の名を冠し、日本の伝統精神文化の原点を正しく伝承する社として、その神殿群は清々しく甍を連ねています。 身曾岐神社 境内案内 高天寺橋本院 高天寺橋本院の公式サイトへようこそお越し下さいました。宝宥山 高天寺橋本院は金剛山中腹の広々とした空間の台地にある高野山真言宗の寺院です。ご本尊の十一面観世音菩薩立像は、木造で高さが5.4mと大きく、「生かせいのちの本像」として信仰を集めています。当寺院のある場所は日本神話の高天原伝承地とされる場所でもあり、古代より霊地とされてきました。ご参拝にお越し頂ければ、独特の静寂に包まれた境内のたたずまいを感じ取っていただけることと存じます。高天寺 橋本院 院主 前田 良仁 高天寺橋本院院主ごあいさつ 丹生都比売神社 (前略)弘法大師が高野山を選んだ理由として、近年、松田壽夫博士が『丹生の研究』で述べているように「水銀の経済的価値を認めていた弘法大師は、留学先の唐で学んだ採掘と製造の新技術をもたらし、高野山経営の経済的な裏付けを求めた」との説もあります。しかし、文献的に高野山においても丹砂が採取された記録は残っておらず、確信にいたるものではありません。当社が鎮座する天野の地は古来、神のみが鎮まる場所とされていました。天野と高野を合わせて神々の住む天上の「高天原」を意味する地であったのです。唐へ留学する以前、若き弘法大師は山野をめぐる修行の歳月を送り、その中で高野山にも足を踏み入れたといわれています。根本道場を開く地を求めた弘法大師の脳裏に、それにふさわしい聖地として浮かんだ場所、それが高野山だったのではないでしょうか。(後略) 丹生都比売神社 世界文化遺産 幣立神社 高天原というのは、人類のふるさとと申しますから、広い意味では宇宙界にあるはずですが、せまい意味では筑紫の屋根といわれる、九州のまん中の幣立神宮となります。なぜならばその宇宙界から、天神がお降りになった所が、外ならぬ幣立神宮であるからであります。ですからこの宮を太古から高天原日の宮と名づけて、一世(いせ)の宮と申します。その証しが天神の降臨地に生えたヒノキを、太古から一世内宮(いせうちのみや)とあがめ現在は十代目であるが、日本一の巨檜となり、更に一世外宮(いせさとのみや)と仰がれる神杉を、天御中主尊のお手植え六代目と伝えています。 県神社庁
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 天之常立神(あめのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神。 天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神である。独神であり、現れてすぐに身を隠した。日本書紀本文には現れず、古事記および日本書紀の一書にのみ登場する。日本書紀では天常立尊と表記される。 天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。先代旧事本紀では天之御中主神と同一の神であるとしている。 その後に現れる国之常立神の方が古くから信仰されてきた神であり、国之常立神の対になる神として創造された神と考えられている。抽象的な神であり、神話に事績が全く出ないことから、祀る神社は少ない。出雲大社(出雲市)に客座神として祀られているほか、駒形神社(岩手県奥州市)、金持神社(鳥取県日野郡日野町)などに祀られている。
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カミムスビ(神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命) 日本神話でアメノミナカヌシ(天之御中主神)の次にタカミムスビ(高御産巣日神)とともに登場した創造神。 地上界の創造神。 ゾウカサンシン(造化三神)の一人。 コトアマツガミ(別天津神)の五柱の一人。 オオクニヌシ(大国主神)を生き返らせるためにキサガイヒメ(討貝比売)とウムガイヒメ(蛤貝比売)を派遣する。 関連: タカミムスビ (高御産巣日神) スクナビコナ (少名毘古那神・息子) 別名: カンムスビ(2) (神皇産霊神) カムムスヒ (神産巣日神) カミムスヒ (神産巣日神) カミムスビミオヤ (神産巣日御祖神) カミムスビノミオヤ (神産巣日御祖神) カミムスビオオトジ (神魂大刀自神) 祭神とする神社: 東京大神宮(東京都千代田区) 秋川神明社(東京都あきる野市) 穴沢天神社(東京都あきる野市) 安達太良神社(福島県本宮市) 阿羅波比神社(愛媛県松山市) 江文神社(京都府京都市) 八神社(京都府京都市)
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目次 1.神想観(しんそうかん)とは何か 2.神想観の実修方法 3.神想観実修上の注意点 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 6.霊能力の多面性 7.如来の声が聞けるのは如来だけ 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 9.住吉大神の役割は地上浄化 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 12.日々、自らの人格を高めよ (1987年7月2日の霊示) 1.神想観(しんそうかん)とは何か 谷口雅春です。さて、本章では、いよいよ真説・神想観の話をしてまいりたいと思います。本書の読者が必ずしも「生長の家」の信徒であるとはかぎらんので、神想観とは何かについて、まず簡単に話をしておかねばなるまいと思います。 神想観というのは、字を見るとわかるように、神を想い観ずる、と。こういうふうに書いております。まあ、言ってみれば、精神統一の方法であります。私が、数十年にわたって説き来たり、説き去ったところの生命の実相哲学というものは、単に思想や哲学に止まらず、宗教と言われる領域にまで踏み込んでいるのです。 その理由は、そうした精神統一の方法、高級神霊との交流という方法が、やはり、そこにあるからです。だからこそ、宗教とも言い得るのだと思います。 単に思想としてのみ見れば、私の教えも、もしアメリカに現われれば、ニューソートという光明思想になっているわけですから、単に宗教とは言いかねるものがある。ただ、「生長の家」が宗教と言われておる理由は、神に対するそういう神想観というひとつの修法を持っておるからであります。 神想観についての詳しい説明は、私の著書、生前の著書のなかの『生命の実相』という書物のなかに詳しく説明があるので、それを別の機会に参考にしていただきたいと思うのであります。ここでは、精神統一ということ、祈りということ、そうしたことに関して、こちらに還った私の率直な感想を踏まえて、話をしていきたいと思うのです。 これはね、ある意味では、自力・他力という古来から闘わされておる宗教的な問題に対する答えをも含んでおると、こういうふうに言うことができると思うのです。 2.神想観の実修方法 神想観というのは、要するに、姿勢を正して、合掌の姿をとるわけですね。合掌の手というのは、通常の仏教で言う合掌よりも、やや高いところまで上げる。その場合、手のひらの隙間(すきま)に、呼吸、すなわち、口から出る息がかかる程度の、通り抜ける程度の高さまで手を上げてくるわけですね。こうして、精神統一をする。 まあ、正坐してやるのがもちろん本筋でありますが、とくに正坐でなければいかんというほど堅苦しいものではない。女性とか、子供とかは、正坐が無理であれば、おかしくない程度に足を崩してやられてもいい。ただ要は、やはり背筋をピンと伸ばして、威儀を正して、精神統一をやる必要があるということです。 そして、この手を口の前まで持ってきて合掌して、神招(かみよ)び歌、招神歌(しょうしんか)ですね、これを唱えるわけですね。大きく呼吸を整えながら、招神歌(かみよびうた)を唱えていく。 「吾(わ)が業(わざ)は吾が為(な)すにあらず、天地(あめつち)を貫(つらぬ)きて生(い)くる祖神(みおや)の権能(ちから)」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命(いのち)」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 と、こういう言葉がありますが、これらの言葉を繰り返し繰り返し、合掌の姿で語っていく。こういう言葉を唱(とな)えておると、この招神歌のなかには、つまり、言魂(ことだま)というのが宿っておって、この言葉を口から発すると、天上界にいる諸神霊が感応してくる。 具体的には、こういう言葉を発すると、本人の守護霊や指導霊が感応してくるというわけですね。本人の守護霊と言っても、霊界でやはり仕事を持っておりますから、いつも、常時来ておる人間の傍(かたわ)らに立っておるほど暇(ひま)なわけではないのです。あの世でも仕事をしながら、やはり家庭教師のような具合であってね、ときおり、教えにくる、と。こういうのが、守護霊なわけであります。 そういうことで、こういう招神歌(かみよびうた)を唱えて、守護霊、あるいは、指導霊という一段と霊格の高い霊もおるわけですが、こうしたものの注意を喚起すると、彼らの光が天上界からサーッと流れ込んできて、心のなかに暖かいものが入ってくる。こういう経験をされた方は、数多いであろうと思うのであります。 まあこれはね、昔から神道などでも祝詞(のりと)というのがあって、祝詞で高級神霊の力というものを授かっておりますが、こういう言葉というのは、ひとつの何と言いますかね、つまり、合図なわけです。 まあ、昔から合図と言えば、「山」と言えば、「川」というふうに答えるとか、こういうふうにして合言葉がありますが、これは、地上界におる人間と天上界におるものとの間に、いわば電話をかけるのと同じであるし、橋を架けるのと同じなわけですね。ですから、こっちから、「もしもし」と言えば、向こうが、「ハイハイ」と答えてくる。この「もしもし」にあたるのが、こうした招神歌(かみよびうた)、招神歌(しょうしんか)だということなのです。 この招神歌(かみよびうた)のなかでも、最初に、次のような言葉を言うようになっております。「生(い)きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給(たま)え」と。まあ、この言葉を繰り返すわけですね。二度ほど各歌を繰り返す。正式に、もう一度言うとすると、つまり、こうなります。 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖親の権能」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長(せいちょう)の家大神(いえのおおかみ)守りませ」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ」 まあ、こうした四首があって、これを繰り返し繰り返し、唱えるわけですね。そうすると、顔の前に合掌しているこの手というのがアンテナになるわけですね。まさにアンテナになって、大宇宙の生命と一体になってくる。こういうふうになってきて、この手が霊的に感応して、揺れ始めたりすることもあるわけですね。合掌した手が、ひとつの磁石のようになって、磁気を帯びてくる.まあ、こういう感じになってきましょう。 そして、こういうことを、歌を繰り返し唱(とな)えた後、「生長の家を通じて働き給(たも)う神よ、この合掌をアンテナとして大生命と一体にならせ給え」と、こういう言葉を何度も何度も繰り返していくわけです。 続いて、「我れ、今五官の世界を去って、実相の世界に坐(ざ)す。自分の今坐っているのは、これ実相の世界。――神の無限の知恵の海、無限の愛の海、無限の生命(せいめい)の海、無限の供給の海、一切大調和の実相世界である。この大調和の実相の世界にいて、自分は今神の子として、神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と、まあ、こういうふうに心のなかで何度も何度も繰り返していくわけですね。 このように、神想観(しんそうかn)というのは、自分で実修ができるというところが、非常に大切なところなのですね。自分で実修ができて、しかも、効果が現われてくる。静かに精神統一をし、瞑目して呼吸を整えておくと、だんだんに、体全体に力が漲(みなぎ)ってきます。 「神の無限の生かす力、自分のうちに流れ入る流れ入る、流れ入る……」と、こういうふうに繰り返して言えばいいわけです。「神の無限に生かす力、自分のうちに流れ入る、流れ入る、流れ入る、流れ入る……」「無限の生かす力に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている……」と、まあ、こういうことを何度も何度も繰り返しておると、本当に霊天上界から神の光が降りて来るんですね。 3.神想観実修上の注意点 ただ、こうした精神統一法、神想観をやっておっても、本人の心が不調和であると、この合掌のときに、霊動というのが起きてきて、濡(ぬ)れ手の水を切る形で、打ち振るうような、そういう霊動というのが起きることがあります。 こういう場合には、たいてい、本人に憑(つ)いておった悪霊というのが浮き出してきておる。こういうわけであります。ですから、こういうときには、いったん神想観を解いて、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』、あるいは、『天使の言葉』、こういうのを繰り返し、繰り返し読むのがよろしい。そうすれば、次第に精神が統一されてくるでありましょう。まあ、こういうふうに思うわけであります。 まあ、ただね、これが一般的な修法でありますが、神想観においていちばん大切なことは、やはり、この最初の段階であろうと思うのですね。実際、こうした精神統一法によって無限の力というものが天降ってくるわけだけれども、その無限の力というものを受けんとしておる人間の心のなかに、悪しきもの、あるいは、我欲だな、そういうものがあったのではよくない。あんまり我欲のままに神想観をやっておると、精神統一をするわけであるんだが、その精神統一というのが、結構悪いほうに向いてしまう可能性があるわけですね。 つまり、本人が悪霊などにかなり憑(つ)かれておるときに、この招神歌を唱えておると、高級諸霊は何とかして本人に霊示を与えようと感応し始めるんだけれども、いかんせん悪霊というのに完全憑依(ひょうい)されておると、精神統一をしたのをいいことに、本人にかかってきて、そうして、いろんなことを言うことがあるんですね。 このときに、招神者がとくに間違いやすいのは、その自分に憑いておる悪霊の唆(そそのか)しを真に受けてしまうことがあるんですね。とくに、自我我欲のままにね、欲でいっぱいになって神想観をやっておって、悪霊などがかかってきた場合には、悪霊が耳元で囁(ささや)いたりすることがある。 何を囁(ささや)くかと言うと、「そうだ、そうだ、その方向でいけば金が儲かる。会社では出世をする。好きな女性は手に入る。何でもかんでも思うようになる」というように、ずいぶんつごうのいいような答えをする場合があるのですね。あるいは、「競馬をやれば、それは儲かる。パチンコやっても儲かる」と、まあ、こんなことを言って、いろいろと欲を募(つの)らせる方向で囁く場合もある。 しかし、こういう囁きを受けて、そのまま我が意を得たりということで突っ走ってはならんのです。結局、高級霊の波長を受けるのには、受けるだけの素地というのがやはりいるのです。これを同類相集まると申しますかね。同じ波長のもの同士が通じ合うという法則があるわけです。 したがって、奥さんの浮気に悩んでおる旦那(だんな)や、あるいは、経済問題でヒイヒイ言っておるような主婦に、イエス・キリストじゃの、釈迦じゃの、何じゃのかんじゃというような高級霊がかかるかと言えば、そういうことはないということですね。これを知らねばならん。まあ、そういうことです。 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 これについて、さらに説明をしておかねばならんと思う。つまり、まあ、「生長の家」の理論のなかで、「神は霊媒にかからぬ」と、こういう言葉があるわけですね。それで、巷(ちまた)の拝屋や霊媒に何とかの神が降りただのと言って、まあ、よくやっておるが、こういうのは、十中八、九はキツネ、タヌキ、ヘビの類であることは間違いない。 こうしたものでも、たまにあてものをしてみたり、そういうことをするので、神様と間違えて神社が建ったり、信者を集めたり、そういうことが、ないわけではない。ただ、そういう町の拝屋や、あるいは、北のほうの地方にあるようなイタコというのかな、そうしたものに神近き高級霊がかかるということは、原則としてない。 しかし、これはやはりあくまでも原則であって、例外というものがないわけでもない。例外がなければ、つまり、神は人間にかからんと、霊媒というのにかからんと言うならば、この地上の三次元世界というのは、これは本当の唯物論の世界になってしまって、何の奇跡も、何の神示も、何の霊示も、天上界から臨(のぞ)まんことになってしまう。まったくの無神論の世界、唯物論の世界となってしまう。そうなってしまっては困るわけだから、一定の範囲で、例外を設(もう)けておろう。こういうことがあるわけですね。 それとね、私も生前、この点については詳しくは説かなかったけれども、やはりね、神は霊媒にはかからんけれども、神は預言者にはかかる。あるいは、大宗教家、これにはかかるのですね。これについては、言っておかねばならぬと思う。ただ、神という言葉に非常に多義性があるので、何をもって神とするかという問題は、これは、別にあるわけです。 しかし、宇宙の根本神、この大宇宙を創った造物主が人間にかかるかと言うと、こうしたことは、決してあり得ない。そういうことは、あるわけはないのであります。ただ、人格を持った神霊、高級神霊というものは、これは一定の範囲で、一定の限度で、何百年か何千年に一回か、そういう神示や霊示というものを送ってくることがあるのです。といっても、これは、ごく限られた人だけであります。 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 ナザレのイエスという人間にも、高級霊たちは、やはり霊示を送っておったし、イエスのなかに入って、ずいぶんいろんな言葉を語っておる。じゃあ、イエスは霊媒であるから神がかからんかと言うとそうではない。こうした巨大な神霊能力を持った人の例外というのは、やはりあるわけです。通常の口寄せとはまた違っておる、と。こういうふうに言えると思うのです。 また、釈迦にしてもそうです。現在、釈迦を霊媒だと言う人はおらんであろうけれども、仏典をよく読んでみると、釈迦の顔が二十通りにも変わったというようなことが書いてある。では、なぜ釈尊の顔が二十通りにも変わるのか。現代的に言えば、怪人二十面相になってしまうわけじゃが、結局、釈迦が説法をしておるときに、いろんな高級神霊が釈尊の体を支配して、話をしておったわけです。 そこで、それを見ておった弟子たちの多く、つまり、釈迦教団では芸能者が非常に多かったがため、彼らには、その仏陀の顔が変貌するのが見えた。こういうことがあったわけです。そして、釈尊が何通りもの顔に変わっていく。説法の内容に応じて、顔が変わっていく。その姿を霊視して、驚いたわけです。こうしたことが、いまだに伝えられております。 釈迦の法門というのは非常に多くて、八万四千の法門があると言われております。そして、そのなかで、あるいは法華経(ほけきょう)と言うたり、あるいは維摩経(ゆいまきょう)と言うたり、あるいは阿含経(あごんきょう)と言うたり、あるい華厳経(けごんきょう)と言うたりしておる。こうした経典で、どの経典を信ずるかということが、後代の各派が言い争って議論をしておるわけですが、では、なぜそういう議論になるかと言うと、結局のところ、経典ごとに内容がかなり異なり、個性も変わっておるところがあるのです。 つまり、たとえば、こういうことなのです。華厳経というお経のなかには、「愛」についての話がずいぶんあるわけだけれども、これなどは、イエス・キリストと言われた方のナザレに生まれる前の生命体が、どうやら釈尊のなかに入って、説教しておったようなのです。そうすると、そうした内容になる。 こういうふうに、指導霊の考え方によって、多少違ってくるわけです。そういうことがあるんです。内容的にね。 また、法華経というのが大変な人気であるけれども、法華経にも、もちろん、それなりの指導霊というのがおったわけでね、この指導霊の考えが釈尊自身の考えと非常に似ておる、と。まあ、こういうことが言えるわけなんですね。 だから、後世の仏教者たちが法華経を最勝の教えだと言って、これこそが間違いない教えだと言って、日蓮宗のように発展するようになるわけです。こういうふうに、お経相互でいろんな内容に違いがあって、各派が分かれた理由のひとつは、釈尊自身がひとつの巨大な霊媒であったことは事実なのです。ですから、そういう巨大な霊媒である釈尊に、いろんな高級神霊が入って、語っておった。そのため、釈尊の顔が変貌したり、そのお経の内容が変わることになったわけですね。 だから、現代、釈迦を霊媒だという人はおらんけれども、霊媒能力というのも巨大な霊能力のなかのひとつであって、そうしたことがあるということですね。 6.霊能力の多面性 霊能力のなかには、霊視というような、霊が見えるというような能力もあれば、霊聴と言って、霊の言葉が聞こえる、こういう能力もある。また、霊言(れいげん)と言って、口から霊の言葉が出る、こういう能力もある。あるいは、自動書記(じどうしょき)というのは、体に入った霊が、手を動かすようにして、書く。まあ、こういうものもある。 あるいはまた、テレポーションと言うのかのう、幽体離脱(ゆうたいりだつ)と言って、体から抜け出してあの世を見てくるような、こういう霊能力もあるし、予知能力と言って、将来起きることを予知する能力、まあ、こういうものもある。 大本教祖の出口王仁三郎などは、予知能力とか、あるいは、あの世を見てくる能力、幽体離脱の能力と言うか、こうしたものが大変優れておったように思います。 私の霊能力もいくつかはあったことはあったけれども、谷口雅春の主たる霊能力というのは、いわゆる自動書記であったわけであります。すなわち、私の肉体のなかに高級諸霊が入って、いろんな文章を書かしたり、いろんな詩を書かしたり、お経を書かしたり、まあ、こうぃうことをしておったわけですね。だから、霊が入るということ自体は、私も霊媒と変わらぬわけでありますね。霊媒はロで語ったりするけれども、手で書くのも、霊媒は霊媒です。 日本語というのは、霊媒という言葉に非常に悪いイメージがあるけれども、霊媒体質でない教祖というのはおらんわけです。大宗教家で霊媒能力のなかった者もおらんわけであるから、神は霊媒にかからんという言葉をもって、たとえば、新しい真理が説かれるときに、その真理を説く者を批判するようなことだけは慎しんでいかねばならん。まあ、こういうふうに、私は生前の自分の教えを補っておきたいと思うのです。 巨大宗教家、真理を説くために出た釈迦や、キリストや、モーゼや、マホメット、こうした巨大な宗教家というのは、みんな、もちろん霊能力の持ち主であって、ある意味では、巨大霊媒であることは確かなんです。出口王仁三郎もそうであったしね。 そういうことであるからして、それは口で語るか、手で書くか、耳で聞こえるか、目で見えるかということであって、それほど差異があるわけではないのです。ですから、神は霊媒にかからんということに関しては、これは一般論にすぎない。それで商売しておる巷の拝屋とかそういうところに行って、神の言葉を聞いたなんていうのは、もってのほかだと、こういうことであります。 7.如来の声が聞けるのは如来だけ したがって、神想観などやっておって、神の声が聞こえた、高級霊の声が聞こえたという人も数多いと思うんだけれども、ここで大事なことはね、やはり、その人の人格です。これが問題なわけです。 同類は相通じる、と。同じ波長同士が通じるという原則があるんですから、如来の声が聞ける人は、やはり如来の霊格を備えておらねばならん。菩薩の声が聞ける人は、菩薩の霊格を備えておる、と。まあ、こういうことが一般的には言えるわけです。 ですから、自分が如来や菩薩の声を聞いておると言うならば、じゃ、その人の日頃の生活はどうか、言動はどうか、人格はどうか。どれだけ多くの人を救ったかどうか。こうしたことが試されるわけですね。菩薩から霊言を受けたり、霊示を受けたりするような人であるならば、やはり世に立って、世の人びとを少しでも教化し、救っていく、こういう実践活動をやっておるはずだし、現に、そうしたことができるはずなのです。 そういうことなくして、すなわち、家庭問題に苦しみ、借金に苦しみ、劣等感に打ちひしがれておりながら、我れに菩薩がかかっただとか、我れこそは何とか菩薩の生まれ変わりだとか、言っておっても、こういうことは、あり得ないのです。如来にしては、もっとあり得ません。如来というのはね、ひとつの時代に、出てもせいぜい数人です。二人か三人、それが限度です。たいていね。 したがって、自分が如来であるという可能性などは、九分九厘あり得ないと思って、間違いないのです。ところが、その九分九厘あり得ないのに如来と称するものから声がかかってくるというようなことは、たいていの場合は、地獄の悪霊の惑わかしであることが多いわけですね。 ですから、そうした人は、よく心を静めなければいかん。自惚心(うぬぼれごころ)を持って神想観をやり、そして、霊の声を聞いただとか、霊動が起きたと言って、喜んでおってはならぬのです。もちろん、一部の例外はあります。しかし、原則としては、そういうことはないのだということです。 たとえば、天理教の教祖に天理王の命(みこと)がかかったり、あるいは、大本教の教祖に丑寅(うしとら)の金神(こんじん)がかかったり、と。こういうことはあるけれども、まあ、こうしたことは、ひとつの時代を画する、大きな宗教を起こすために、やむを得ず高級神霊が仕組んだことであってね。こうした特殊な例外以外で、そういうことがあるということは、まあ、これは疑って間違いない。 ですから、菩薩や如来だというような声が聞こえてきたら、自分がそれだけのことをやっておるかどうかを、よく考えねばならぬ。たとえば、読者でもいいが、読者に新たに如来の声が聞こえたり、イエスの声が聞こえたり、あるいは、大日如来の声が聞こえたり、天照大神の声が聞こえたり、字が出てきたりしたと言うならば、まあ、せめて谷口雅春と同じぐらいの実績を上げて、事業を起こしてから、そう言っていただきたい。そういうことが、ひとつの基準であろうと思うね。 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 生前は、私も気がつかなかったけれども、「生長の家」の大神として中心神、根本神をやっておられた方は、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)という日本神道の主導神であった。これが、わかった。 しかし、天之御中主之命、天之御中主之神であったけれども、これを、明確には私に知らされていなかったわけであります。天之御中主之神というのは、幽の幽なる神であって、宇宙の根本神であって、それゆえ、人にはかからんと私は言うておった。実際はそれでいいわけであってね、めったに名のるものではないのです。 すなわち、天之御中主之神が谷口雅春にかかって文章を書いておったと言えば、谷口雅春が増長慢となって間違いを犯すことをおそれて、そういうことを隠しておられたのです。「生長の家」の大神ということで、隠しておられた。私があの世に還ることになって初めて、あかされたわけです。まあ、通常は、高級霊はこうした方便でもって指導するわけですね。そういうことなわけです。 ですから、私の『生命の実相』などは、主として天之御中主之神の神示を受けながら書いたものだし、「生長の家」の本部の庭に建っておる、「生長の家」の大神の神像があるけれども、あの神々しい神姿というのは、実は、天之御中主之神のお姿そのものであります。現実に、あのような姿をしておられるのです。あの方が、私たちを指導神として導いておったのですね。 9.住吉大神の役割は地上浄化 天之御中主之神以外にも、住吉大神(すみよしのおおかみ)、すなわち、住吉大神(すみのえのおおかみ)という方の指導も受けておりました。この方もやはり、如来界の方で、実在の霊人であります。 住吉大神というのが、主としてやっておったのは何かと言うと、これはね、「生長の家」の光明思想を助けるひとつの手段としてね、邪霊、悪霊から我らを、あるいは、「生長の家」の信徒たちを守るという、そういう禊祓(みそぎはら)いの役割を、すなわち、地上浄化の役割ですね、こういうことをやっておられたのです。これが、住吉大神の役割でした。 浄める、浄化する、こういうことをやっておられて、そして、浄められた聖域、霊域のなかに、天之御中主之大神が、次々と光明思想の真理を説かれたのです。こういうことが言えるわけであります。 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 ですから、私の生前の思想は、天之御中主之神のお考えとほとんど変わっていない。こういうふうに言うことが、可能だと思います。まあ、これについてですが、私は生前、御中主之神は幽の幽なる神で、この世に出て来る方ではないと言ったがために、今、私の霊示を読んで、そんなはずはないと疑う人もおるかもしれぬが、事実は事実、どうしょうもないのです。それが、事実なのです。 「生長の家」の大神は、天之御中主之神であるのです。これは、事実です。仕方がないのです。私自身も、過去世において、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)として日本の地に肉体を持ったものでありますが、やはりそうした同じ神々の世界から見ておる者として、そうした中心神のような人が、私を指導しておったということですね。 これに対して、たとえば、「生長の家」の前の団体であると言いますか、大本数のようなところでは、国常立之神(くにとこたちのかみ)というこういう方が指導しておった。やはり如来界の方です。こういう神が、指導しておった。同じ日本神道系ですが、指導神が違うために、大本教と「生長の家」の教えは違う、と。こういうふうに言えるかと思います。 こういうようにね、神想観をやっておるときに、高級霊の霊示がくるけれども、あくまでもその人の人格にふさわしい者がかかってくるということで、伊邪那岐大神であった私であるからこそ、天之御中主之神の神示が下ったと、こう考えねばならんのです。まあ、「生長の家」にも立派な方が多いが、一般信徒に天之御中主之神の霊示が下りることは、まずあり得ない。 その意味では、神は霊媒にかからぬ。しかし、「神は神にはかかる」わけですね。すなわち、神近き高級霊が肉体を持って地上におるときには、神がかかってくることがある、と。こういう例外は認めねばいかん。 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 まあ、この辺はね、二代目総裁の清超先生、それから若き三代目にも、よくよく理解していただきたい。そういうふうに思うところでありますが、二代目総裁が非常にしっかりしておるために、私も、安心してこうした真理を語ることができるわけですね。 ちなみに、私が全幅の信頼をおいて「生長の家」の後を託しておる谷口清超総裁、この方もまた、過去世において、日本神道系の偉大な神霊の一柱であった。こういうふうに言うことができると思います。 まあ、今その名をあかしてよいものかどうか、多少のためらいもないわけではありませんが、古事記、日本書紀のなかに出てくる神々のひとりです。まあ、これは機会を改めたときにあきらかにしようと思います。 私の霊示集も、こういうふうに次々と出しておるわけですけれども、まあ、「生長の家」信徒一般からは、谷口雅春の声に違いないという声が非常に強く、九九パーセントまでは、そのような声が上がっておる。 ただ、「生長の家」の幹部諸君のなかには、まだ初代総裁の声を理解できん方も何人かおるようであるから、そうした人の納得が得られたときに、谷口清超総裁の過去世の名などもあきらかにしたいと思うわけです。まあ、それを信じる信じないは各人の自由であるから、私はあくまでも、その限度にとどめておきたいと思う。 12.日々、自らの人格を高めよ 以上、いろいろと語ってきましたが、本日の要点は、結局、神想観という素晴らしい精神統一の修法があるけれども、あくまでも、その心の波長に合わせたものが語ってくるのであるから、よくよく心の波長を整えるように訓練せねばならん、と。 したがって、より高い高級神霊からの導きを受けるためには、その人自身がより素晴らしい人格者となっていくように、日々の努力精進が何にもまして肝要であるということだ。その人の人格が高まれば高まるほど、神想観を行じておると、より高級神霊からの光を受けることができ、導きを受けることができるということだ。 そして、人生の悩み全般、こうしたものに対して、次々と解答を与えられていく。百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、いろんな難問題が続々と解決されていくであろう。こうしたことで、心の調和を図(はか)り、また、人格を日々高めながら、神想観をしていくなかに、百事如意、すべての道が開かれていくであろう。そして、それがあなたに幸せをもたらす永遠の繁栄の道でもあるということだ。この繁栄の道を信じなさい、と。以上です。
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目次 1.六次元の愛(一)― 道元との恋 2.六次元の愛(二)― 日蓮との恋 3.六次元の一日 4.六次元の学習 5.六次元神界の風景 6.六次元から見た神 5.六次元神界の風景(1986年8月3日の霊訓) 今日は、「六次元神界の風景」と題して、できるかぎり、この六次元神界の様子を地上界人から見てわかるように描写したいと思います。 まず、地上のみなさんは、私たちに住むべき家があるかどうかということが気になられることと思います。 そこでまず住居のことからお話しします。 私は、前回の浅野和三郎氏編集にかかる「小桜姫物語」のなかで、地上に小桜姫神社ができたこと、そして、私たちの世界でも小桜姫神社ができて、私が主としてこの神社を拠点にして、いろいろの地上の方々の願いを聞き届けることを仕事にしていることを話しました。 もちろん、現在でも、小桜姫神社の女主人しての仕事がないわけではありませんが、いまでは、地上の人びとの信仰心が薄く、神社に参って心からご祈願される方は数少なくなりましたので、小桜姫神社の女神様としての仕事は少なくなりました。 そこで現在は仏教の勉強をしているので、それにふさわしいようにセカンド・ハウスといいますか、自分の勉強用の小さな家をつくって一人で住んでいます。こちらの方々は、やはり、それぞれ自分の気に入った家を造って住んでいますが、たいていは一人で住んでいます。というのも、六次元神界ではやはり、精神統一というのが大きな修行ですので、何人もで住んでいると、心が散ってしまって、精神統一がなかなかできないからです。しかし、時折は同心の人と、いっしょに住んで勉強しあうこともあります。 小桜が住んでいる家は、入口が東向きで、南側に大きく縁側をとった一階の畳の部屋が約十畳、階段があって、二階の畳の部屋が約六畳、ここには床の間が一畳分とってあって、「天照大神様」のかけ軸が掛けてあります。一階は主としてお客が来たときに会うための応接室として造ってありますので、黒ぬりの一畳分ぐらいの低い机がひとつと、お客様用の座布団がいくつか出してあります。えっ、台所があるかですって。ええ、簡単な台所を西側に造っています。といっても、食事をすることはないので、簡単にお茶の道具があるだけです。 こちらでもお茶は飲むことがあります。もちろん、水分をとるわけではありませんが、せっかく友人が来たのに、お茶ぐらいは出して差し上げたいという気持ちがあるからです。小桜が主として飲むのは「ほうじ茶」ですが、内容は地上と同じでしょうが、色の鮮やかさ、香りのすばらしさはこちらのほうがぐんと上です。えっ、どこでお茶の葉を手に入れるかですって。それは、小桜が「お茶の葉がなくなったな」とつぶやくと、必ずだれかが届けてくれるのです。私は最近こちらでは、紫式部さんとお知りあいになれたので、彼女もよく遊びにきます。一階の客間でよくお茶を飲んでは、彼女は文学の話をしてくださいます。庭に咲いている赤いつつじの花が自慢なのですが、彼女もこの花をとてもほめてくださいます。 二階の六畳の一間は、私の書斎兼道場ですので、だれも入れたことはありません。ここには、檜(ひのき)で作りつけの書棚が二つあり、そこに私の大切な書物が並べてあります。こちらで出版された、道元さんの新しいご本「坐禅は愛を必要とするか」とか、「日蓮聖人説法録全十巻」とか、神界の学者が書いた「天照大神様のお心」、「精神統一の真髄」、とか、地上で刊行されている霊言集のシリーズも、ちゃんと並べてあります。 こちらの世界でも読書と精神統一は貴重な勉強です。なぜかって、読書による知識は理解力を増しますし、精神統一の力が強くなりますと、小桜なりの自己実現が早くなります。つまり、精神統一とは、神の光のパワーを自分の内部に吸収することですから、それだけ自分の光の量が増えますし、特定の願いごとを心に描くのがうまくなると、それが実際に実現するのです。たとえば、キリスト教の勉強をしたいので、小桜の悟りにふさわしい先生をほしいと思うと、そういう人が現れてくるし、地上のあなた方を指導したいので、もう少し、予知能力がほしいと祈って精神統一すると、だんだんにそういう力が備わってくるのです。 ああ、そう、そう、どうして東とか西とかがわかるのですか、というご質問もおありでしょう。もっともな疑問だと思います。私たちが住んでいる村はちょうど地上でいうと伊豆付近の感じで、海も山も浜辺もありますが、村のはずれに大きな「祈りの塔」という建物があって、この建物のある方向が東だとされています。そして、浜辺の方向、海のある方角が南とされています。小桜が住んでいるところは、浜辺から約二百メートルくらい入ったところで、石段を百段くらい上がったところに見晴らしのよい丘があり、ここを住居にしているのです。 それから太陽はあるのかというご質問ですね。太陽は確かにあります。地上の太陽のような白いまぶしい太陽ではなくて、もっと黄金色をした、上品な、優しい光を投げかける太陽です。それを見つめ続けても目がつぶれるということはありません。スウェーデンボルグさんとかいう偉い方が、太陽はどちらを向いても正面にあるとか言っておられるそうですね。それはちょっと混乱もあるようですが。だいたいいつも同じあたりの高さにあるのは確かです。どこを向いても正面に太陽があるというのは誤りですが、どこを向いても、太陽が視界に入るというのは正確です。というのも、霊天上界の太陽は私たちへの光のエネルギーを供給するものですから、すべての人が平等に光を受けられるようになっているのです。 さて、海のことも触れておきましょう、海は地上の海とよく似ています。しかし違っているのは、どこまで入っていっても溺(おぼ)れて死ぬということがないということです。それと少し、色合いが違っているようですね。波が押し寄せたり引いたりするときの金波、銀波というのは、文字どおり金色の波であったり、銀色の波であったりします。銀色の波が光に当たった瞬間、くだけた波が金色の泡となって、空高く昇ってゆく姿は圧巻です。 浜辺には、大きな演舞台のようなところが造ってあって、月に一回は、村の人びとが集まって、催し物をやります。村の人といっても約三百人ぐらいですから多くはありません。 ここでは、最近新たに悟りを開いた方の体験発表とか、新しくこの村に入ってきた人の紹介だとか、どこかを旅行してきた人の旅行談発表などがあります。つい昨日も、初めて竜宮界に旅行してきた方の経験発表があって、さかんに質問されたり、拍手を送られたりしていました。 竜宮界はどう行けばよいかお知りになりたいですか。切符を買って亀の背中に乗ってゆくのです。これはほんの冗談、信じちゃいけません。村のはずれに岬がありまして、そこから、海の底に入っていく海底トンネルがあるのです。一応、竜宮界というのは、意識の世界ではやはり海の底ということになっています。 仙人界とか天狗界に入ってゆくのは、やはり、村はずれの山道をどんどん登っていって山の尾根に出て、その尾根伝いに、一週間ぐらい歩き続けねばなりません。 まあ、こちらの世界にきて間もない人は、たいてい指導役の霊人がついて、いろんな世界に案内してくれるのです。そうでないと、迷子になって帰ってこられなくなるからです。 六次元神界から七次元菩薩界に旅行できるかですって。ええ、これは原則としてはできません。ただし七次元以降の方が六次元に降りてきてくださって、その光のオーラで包んでくだされば、上の世界にも旅行できます。しかしその場合でも、小桜姫からみると、上の世界は光が強すぎてまぶしいものですから、ある程度のところまでしかいけません。天照大神様のいらっしゃるようなところへは、とても光が強すぎて、まふしすぎて行かれません。 地上のあなた方は、高級霊の方々と何のためらいもなく話しておられますが、実際は魂の段階が違うとそう簡単に話はできないのです。あまり偉い方の前へ出ると、光の強さでくらくらして、卒倒しそうです。小桜は二度ほど、勉強のため、菩薩界に連れて行ってもらったことがありますが、そこは光り輝く、黄金色のすばらしい世界で、みな心の広い方ばかりでした。若草色のすばらしい芝生の広場には、色とりどりの衣装の各国の人びとがすわって、話しこんでいました。 ええ、もちろん、下の世界へは何度も足を運んでおります。下へ行くほど人間社会に近づくみたいで、幽界などでは家族で夕食している姿など、とても懐かしく感じられました。 地獄界は、やはり恐くて一人では行けません。私より、もっと力の強い光の天使につき添われてなら、何度も行ったことがあります。その世界のかび臭いこと、うす暗いこと、じめじめしたこと、いつも六次元に帰ってくるたびに、もう二度と行きたくないと思います。ほんとうにはき気がするんですから、地上で心清く生きている人びとは、自分は損みたいな性分だと思っておられるかもしれませんが、やはり死後の世界は、明るい世界に還ってくることにこしたことはないようですよ。 最後にひと言、六次元の衣服についてお話しして、今日は終わりたいと思います。 こちらの世界は念の世界ですから、ミシンを踏んで服を縫うわけではありません。やはり着たいと思う衣装を心に描くと、そういう衣服が出てきます。ですから、洋服箪子(だんす)などありません。小桜は主に和服を着ていますが、小桜神社で用があるときは神様みたいな格好、そう、神社の巫子さんを上品にしたような姿をとります。キリスト教系の方から招かれたときは、慣れないドレスを着ることもあります。色は白が基調で、和服なら花がら、それ以外なら紫色でアクセントをつけます。もちろん、女性のたしなみですから、下着もつけていますが、男性の読者に恋されては困るので、詳細は申しません。 小桜の村では、男性は羽織袴が多いですが、これも、儀式のときなどは正装にかえます。衣服のデザインをアドバイスする専門家もこちらにいることをひと言申し添えて、今日は終わりにします。 6.六次元から見た神(1986年8月5日の霊訓) さて、今日は、一年あまり続いたこの小桜姫の霊界通信の最終回です。最後をしめくくる話として、「六次元から見た神」という題でお話しましょう。 さまざまな高級霊が、私たちの世界について、いろいろな角度から説明をされていると思います。しかし、どんな高級霊であっても、「神」については、決して明確な形で描写はできていないはずです。小桜にしても、「神とは何か」と問われると、はっきりと答える自信はありません。しかし、少なくとも私たちの世界では「神」をどう考えているかというお話はできると思うのです。 「神」については、古来地上界においても、たくさんの宗教家が、一神教、多神教いりまじって、いろいろの説を述べています。結局どなたも、はっきりしたことは言えなかったのでしょう。 小桜のいる六次元では、現在「神」については、普通次のような説明がされています。つまり神とは、宇宙に遍満する叡智である。神とは、宇宙の進化を司(つかさど)っている巨大な意識であり、エネルギーであり、知恵である。なぜ宇宙が存在するのか。それは、宇宙を現象化しようとする神のご意志の働きなのだと。神を物体的に、人間の大きさだとか、宇宙大だとかいうのは間違っている。神は物体的に見て巨大な存在なのではない。神は次元的に見て、人類よりはるかに高次元の存在なのである。しかも、最高次元の存在なのである。最高次元の存在であるから、自分より低い次元を自由自在に創造し、破壊することができるのである。 神は、このように高次の存在なのであるが、同時にいくつかのご性質、ご性格をもっておられる。そして人類が、あるいは宇宙に存在するものすべてが、多次元世界に住むすべての生命体が、この神のご性質・ご本質に近づいてこられることを願っておられる。 その神のご本質・ご性質とは、現在までに研究されたかぎりでは次のようなものである。 一、愛 二、知恵 三、創造 四、法則 五、永遠 六、美 七、調和 八、発展 九、秩序 十、光 まだまだ、そのご本質のなかには無限のものを持っておられるのでしょうが、少なくとも以上の十の項目は、神とは何かを物語るものでしょう。 たとえば、神とはまず愛です。この「愛」のなかには、お互いに仲良くしあうということ、お互いに許しあうということ、お互いに慈しみあうということ、こういった希望が込められております。 また、神とは知恵です。すべてのものを、のびのびと生かしめる知恵、宇宙のあらゆるものを理解する大智識です。 さらに、神とは創造です。この三次元宇宙を創られたのも、神の創造、もちろん、四次元、五次元、六次元以降の世界もです。神は創造に創造を重ねております。そして一見破壊と見えるものも、じつは新たな創造にしかすぎないのです。 しかも、神とは法則です。この三次元宇宙、多次元世界をも含めて、ひとつとして神の法則に例外はありません。神は掟(おきて)であり、ルールであります。 そのうえ、神とは永遠です。神は最初にして最後、無始にして無終の存在です。この無始・無終の存在が、さまざまな生命体に修行の機会を与えるために時間というものをお創りになったのです。また神とは美です。神はすばらしい芸術家です。神は、美しさとは何かを私たちに教え、美しさの定義をする人であり、美しさそのものであります。 さらに神とは調和です。神は、神の創造されたすべてのものが、すべての生命が、大いなる調和のなかで、ひとつの巨大なハーモニーとなって育まれることを望んでいます。 しかも神とは発展です。神は停滞を好みません。神は後退を好みません。神は永遠の進歩であり、発展そのものです。神は伸びていこうとする力そのものです。その伸びていこうとする力が、宇宙を創造されたのです。 けれども神とはまた、秩序であります。神とは発展をそのなかに秘めた秩序そのものであります。神の秩序は厳格にして、厳粛(げんしゅく)です。神とは、尺度そのものであり、何が価値があり、価値なきものであるかを決める、偉大なる尺度であり、物差しなのです。 最後に神は偉大なる光です。すべてをあまねく照らす光であり、すべてを生かす力であり、すべてを育む、偉大なる光のエネルギーそのものです。無限のエネルギー、無限の光の源(みなもと)なのです。私たち六次元神界の住人も、偉大なる神をめざして進化していこうと努力している者たちです。そしてその努力の方向とは、いかにして神のご性質に近づいていくかということです。 大いなる神に栄光あれ。 神の光があまねく地上を照らし、 地上のみなさまが大いなる叡智に 目覚められんことを 心よりお祈りします。 小桜姫